【都市伝説】「かごめかごめ」に纏わる噂の検証【遊女説・徳川埋蔵金説】
みなさんこんにちは。
今回は、あの有名な「かごめかごめ」に関する記事です。
子供の頃に遊びましたよね。
当時は意味も分からないまま歌っていましたが、「かごめかごめ」にはある恐ろしい噂が存在するといいます。
かごめかごめ
オカルト好きなら一度は聞いたことがあるだろう。
「かごめかごめ」には、都市伝説がいくつか存在する。
その中でも、有名な2つの説がある。
1つ目の説は、かごめかごめの意味は、遊女を表していたという説だ。
1日中(夜明けの晩)、男性の相手をして(つるっと亀が滑った)いつになったらここから出られるのか(いついつ出やる)という意味に解釈できるという。
2つ目の説は、徳川埋蔵金のありかを示しているという説。
徳川家康を祀っている、日光東照宮には鶴と亀の像があり、かごめかごめの歌詞にも鶴と亀が存在している。
さらに、徳川に縁のある場所を線で結ぶと、籠目(かごめ)のようになり、中心部分には日光東照宮があるのだ。
このことから、徳川埋蔵金の場所を表していた暗号が、かごめかごめなのではないか、という話もある。
私達が何気なく歌っていたこの歌には、本当は恐ろしい意味が隠されているのかもしれない。
噂の検証
もう少し詳しく説明すると、徳川に縁のある神社や寺を線で結ぶと、六芒星のような形になります。
籠目の一部分を抜き出すと、六芒星の形になります。
そして、その中心部分が日光東照宮であり、徳川家康の墓があります。
その近くには鶴と亀の像があり、朝日(夜明けの晩)に照らされると、影が家康の墓を示します。
そして墓の裏にある祠には、六芒星の三角形が上だけ欠けているマークが描かれており、それは「下」を表しているといいます。
つまり、その場所に埋蔵金が埋まっているのです。
というのが、都市伝説の概要です。
さて、本当にかごめかごめは徳川埋蔵金の在り処を示しているのでしょうか?
・元の歌
そもそも、現在歌われている歌詞と、昔の歌詞に違いがあります。
かァごめかごめ。かーごのなかの鳥は。いついつでやる。夜あけのばんに。
つるつるつっぺぇつた。なべのなべのそこぬけ。そこぬいてーたーァもれ。
1820年頃に書かれた竹堂随筆には、すでにかごめかごめが載っていますが、亀という語句は存在しません。
ただ、「つるつるつっぺぇつた」という歌詞があります。
ここから歌詞が鶴となり、鶴となれば「亀」が連想できる(鶴は千年、亀は万年、鶴亀等、昔から鶴と亀の組み合わせはメジャーでした)ことから、現在の歌詞へ変わっていたと考えられます。
このことから、埋蔵金を表す暗号として歌詞が成り立ったのではなく、元の歌が変化していったと考えるのが妥当だと思います。
ちなみに埋蔵金について疑惑が持たれ始めたのは1868年なので、元の歌の方が古いです。
また、1915年に刊行された、俚謡集拾遺にも、各都道府県のかごめかごめが載っていますが、かつて江戸城が存在した東京では、まだ「亀」が歌詞に登場しておらず、鶴と亀が歌詞に現れたのは長野県でした。
最後に、日光東照宮の鶴と亀は朝日を浴びても家康の墓の方向には伸びません。
・遊女の歌
その他にも、遊女を歌った悲しい歌だったという説があります。
これに関しては以下の論文が参考になりました。
童謡・わらべ歌新釈(中)若井 勲夫
まずは、歌詞の意味を詳しく書いていきます。
かごめ=籠女
籠の中の鳥=遊郭から出てこられない遊女
いついつ出やる=いつになったら出られるのだろう
夜明けの晩=一日中
亀が滑った=男性の相手をしている(亀は僕らに付いているアレのことです)
うしろの正面だあれ=すでに次の男が来ている
ネットで落ちている情報を適当に拾っただけですが、こんな感じですね。
さて、籠と鳥に関してですが、1670年代頃、「籠の鳥」という語句が多くの歌に取り入れられ、流行していた記録があります。
前述した論文によれば、籠の鳥が使われた歌謡は1680~1810年代までで、かごめかごめの初出は1797年です。
籠の中の鳥という語句は元の歌にも存在しており、「籠の鳥」という語句は自由のない女性という意味で使われているものがほとんどでした。
このことから、「籠の鳥」という語句が流行した時期に、かごめかごめが誕生していることから、遊女を歌ったというのはあながち間違いでないかもしれません。
ただ、歌に使われだした語句を子供達が遊びに取り入れただけなのかもしれません。
かごめかごめには「動けない鬼」がいるわけですから、それを「籠の鳥」に模しただけという可能性もあります。
意図して遊女の歌にしたのか、たまたま流行っていた語句を取り入れただけなのか、そこは分かりません。
あとがき
なんとなく聞いたことがある都市伝説ですが、調べてみると割と奥が深い話でした。
みなさんも聞いたことがありませんでしたか?
実は徳川家に仕えた服部半蔵は松尾芭蕉でこの歌を広めるために松尾芭蕉と名前を変え旅に出たという都市伝説がありますね。
しかし服部半蔵が徳川家と密接な関係だったのって2代目だけで、しかもその時の服部半蔵と松尾芭蕉は生まれた時代が一世紀近く違うと・・・
情報ありがとうございます。
なるほど・・・。
前半だけを見ると、ありそうな気がします笑
ただ、やはり辻褄が合わないのですね。。